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2025.06.16

人的資本経営の現在地―何を、どこから変えていけばいいのか

客員研究員 堂西晴香

人的資本経営が企業経営の重要テーマとして注目を集めるようになってから、すでに5年が経過した。2020年の「人材版伊藤レポート2.0」に端を発し、人材を単なるコストとしてではなく、企業の中長期的な価値創出の源泉であるという認識が広まりつつある。従来、財務諸表では掲載されてこなかった非財務的な人的資本による企業価値の創造は世界的な潮流となっており、欧米諸国では、日本に先駆けて、人的資本への投資や人的資本の強化に向けた人的資本の測定と開示が積極的に進められてきた。

こうした欧米諸国の動きにキャッチアップするように、わが国でも2022年8月に政府が「人的資本可視化指針」を発表し、2023年には有価証券報告書における人的資本情報の開示が義務化されるなど、人材投資と企業価値の繋がりを可視化するための指標整備が進められてきた。スキルの可視化やエンゲージメント調査、研修体系の整備といった施策は、多くの企業で導入されつつあり、「人的資本に投資する」という意識の浸透は確実に進んでいるように見える。

しかし、他方で、こうした制度的進展と実務的手応えとの間には乖離が見られるのもまた事実である。経済産業省が2024年に実施した調査では、多くの企業が人的資本経営の重要性を認識しているにもかかわらず、「知見が不足しており、どこから着手すべきかわからない」という声が依然として根強いことが明らかとなった。この停滞感の背景には、人的資本経営という概念があまりに多義的・包括的であり、具体的な実践の焦点が定まりにくいという課題が挙げられる。ウェルビーイング、ダイバーシティ&インクルージョン(D&I)、戦略人事、人的資本のKPI設計など、さまざまな議論が並行的に展開されているが、何を優先し、どう統合的に推進すべきかの指針は当然ながら示されてはいない。また、開示義務の強化が逆に、測定基準の策定や帳尻合わせに追われる“開示のための人的資本経営”を生み出し、現場では従業員の熱意や協働意識の低下といった副作用も報告され始めている。

このように、「人的資本経営に取り組んでいる」という形式的な達成感が先行し、肝心の“人材への投資を通じた価値創造”という本来の目的が形骸化しているケースも少なくない。人的資本経営は、画一的なテンプレートで運用できるものではなく、経営理念や事業戦略と結びついた設計が求められる。だからこそ形式的な取り組みに終始するのではなく、わが社にとって「人的資本とは何か」を再定義し、そこに明確な焦点を定めることが今まさに問われている。人的資本経営が一時的な“流行”にとどまるのか、それとも“本質的な変革”となるのか――その分岐点に、私たちは今立っている。